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米国バイデン政権の気候政策「インフレ抑制法」に至る道(朴勝俊著)

 

米国バイデン政権の気候政策「インフレ抑制法」に至る道

朴勝俊(関西学院大学)

2023/10/1

 

20281113日、グリーン・ニューディール政策を求める「サンライズ・ムーブメント」の若者たちは、ナンシー・ペロシ下院議員(民主党)のオフィスを占拠して、気候政策に真摯に取り組むことを要求した(多くが逮捕された)。サンライズ・ムーブメントは大学生が中心の運動であるが、労働運動や人種差別反対運動、先住民運動などと連帯して、「誰ひとり取り残さない」ための、グリーン・ニューディールを求める運動を展開してきた。その運動の中身や政策については、リーダーであるプラカシュとジルジェンティが編集した『グリーン・ニューディールを勝ち取れ』で知ることができる[1]

かれらの運動を政治家として受け止め、グリーン・ニューディールの名を冠した具体的な政策として打ち出したのが民主党左派の議員たちである。アレクサンドリア・オカシオコルテスとマーキーはGND決議を提出した(付録)。バーニー・サンダースのグリーン・ニューディール政策は、15年間で16.3兆ドル(1ドル=140円として、2282兆円、年間152兆円)という巨額の投資を行う、大規模な積極財政政策であった。この16.3兆ドルは、化石補助金廃止や、電力卸売り、軍事費削減、所得税の自然増収、雇用セーフティネットの節約、大企業課税によって、長い目でみて元をとるという考え方をしていた[2]

サンダースは、この政策を掲げて、民主党の大統領候補予備選挙に討ってでた。重要な州をいくつも獲得し、いったんは大統領候補者になる勢いであった。しかし、やがて、バイデン陣営の巻き返しによって、サンダースは勝算が薄くなり、選挙戦から撤退することとなった。しかしこの予備選が、アメリカの運命を大きく動かすことになる。サンダースたちが蒔いたグリーン・ニューディールの種が、のちに米国バイデン政権の気候対策法である、「インフレ抑制法(Inflation Reduction ActIRA)」に結実するのである。

バイデンは、民主社会主義者のサンダースに比べれば、はるかに保守的である。しかしこの選挙戦を通じて、ずいぶん「左へと」動かされた。すなわち気候政策や労働者、若者たちのための政策を、相当程度まで受け入れたのです。それは、気候政策や労働政策を求め、サンダースを支持する労働者や若者たちの支持がなければ、トランプに勝つのは難しかったためである。

202048日、サンダースは予備選挙運動の終了を発表した。ここで何より重要なのは、トランプを再選させないことであるから、自分自身もバイデンを全面的に支持し、落胆する自分の支持者たちの票をバイデン候補に集めなければならなかった。2020413日に彼は、ライブストリームにバイデンと出演し、応援を明確にした。そして革新派(プログレッシブズ)と穏健派のタスクフォースの結成を発表した。これはいわば、バイデン陣営とサンダース陣営の政策協定をつくるための会議である。

タスクフォースでは、対処すべき6つの危機として、経済と、医療、教育、気候、移民、司法を位置づけた。サンダースは「プロセスは率直で、困難で、時には不満で、時には勇気づけられるギブ&テイクだった」と言っている [3]。 

サンダース側は、自陣営がこれまで訴えてきた政策の実現のために、タスクフォース内で次のように要求し、ある政策は合意でき、ある政策は決裂した。表1を見ると、サンダース陣営が何を求め、何を獲得できたかが分かる。

 

1: バイデン=サンダース陣営のタスクフォースにおける革新的政策の合意と決裂

l  連邦最低賃金を、時給15ドルにするか? →合意

l  単一の国民皆保険制度(Medicare for All)にするか? →決裂

l  医療保険者(メディケア機関)が薬価を交渉できるようにするか? →合意

l  マリファナを合法化するか? →決裂

l  積極的な気候対策と市民気候部隊を設立すべきか? →合意

l  学費負債の免除は? →決裂

l  医療保険資格年齢を60歳に引き下げるか? →合意

l  大学を無償化するか? →決裂

l  私営刑務所・留置所の廃止? →合意

l  億万長者に富裕税を課す? →決裂

出典: 脚注3の書籍、p.42

 

サンダース側は、全てを獲得できたわけではなかったが、それでも合意できた部分を見れば、バイデンの立場を相当にプログレッシブな側に動かすことができたと言える。

選挙戦のさなか、2020119日、バイデンは200兆円規模のインフラ投資を打ち出した。その頃、全米をコロナウイルス・パンデミックが襲っていた。この頃は、経済学者の間でも、政治家の間でも、政府の財政赤字が財政破綻につながる、という心配は薄らいでいた。おカネというものは、政府が税金で集めるものではなく、政府が作って出せるのだ、という考えが共有されてきていたのである。
 トランプ政権下でも、83億ドル、1920億ドル、2.2兆ドル、4834億ドル、0.9兆ドルと、人々の暮らしを支える給付金など、立て続けにコロナ対策支出が行われた。この総額は約3.8兆ドル(532兆円)もの巨額であった。

大統領選挙の結果はおおかたの予想に反して、かなりの大差でバイデンが勝利した(選挙人数は306232)。気候政策や医療保険制度の改善を求めてきたプログレッシブ陣営の支持が、大きな役割を果たしたと考えることができる。バイデンは、2021120日に大統領に就任し、一方のサンダースは上院予算委員会委員長の座に就いた。しかし、これで民主党政権がタスクフォースで決まったように、思うように国を変えてゆけるようになったのかというと、そういうわけではない。

当時の連邦議会の議席配分は、民主党と共和党が全く拮抗していた。それでも下院の方は民主党が過半数をとっていました(222211)。しかし上院は5050であった。タイになった場合は、民主党の議長が一票を投じることができるとはいえ、それも楽観できない状況となった。なぜなら、民主党の上院議員の中にも、気候政策を妨げる人物がいたからである。特にマンチン上院議員は、民主党員でありながら、共和党議員と比べても、はるかに多くの献金を化石燃料産業から受けてきた政治家である。5050の議席配分は事実上、こうした人物がキャスティングボートを握ることを意味する。これが民主党の気候政策にブレーキをかけてゆくことになる。

バイデン政権の下でも、2021年の間に巨額のコロナ対策支出(米国救済計画、1.9兆ドル)の他に、インフラ投資法(5年間で1.2兆ドル)が通過した。そして、グリーン・ニューディール政策の精神を引き継いだビルドバックベター法案が下院で可決されるに至った。金額は、サンダース委員長が求めた6兆ドル、あるいはバイデン大統領が求めた4兆ドルに比べ、ずいぶん少額となった。すなわち、10年で2.2兆ドル(およそ300兆円)の計画である。これには、大企業や富裕層への課税も含まれる。しかし上院採決には至らず、法案は凍結状態に陥った。

この法案の成立を妨げた要因は、もう一つあった。すなわちインフレである。世界の物価上昇は、実のところロシアのウクライナ侵略(20222月)の前から起こっていました。コロナ危機からの回復を、ひとつの契機として、2021年を通じて物価上昇が続いていたのである。これは米国に限らず、欧州でも同様であった。特に、石油・石炭・天然ガスや、小麦などの穀物の国際価格が急激に上昇した。ロシアのウクライナ侵攻は、それをさらに加速させる要因となった。このインフレが、アメリカにおいては最大の経済問題となったのである。積極財政による気候政策の前進は、そのままの形では難しくなり、長期にわたって凍結状態となった。

皮肉なことに、この凍結状態を解く上で、キーパーソンの役割を果たしたのが、あのマンチン上院議員であった。2022年の727日、マンチンが突然、金額を大幅に減らした気候・税制・医療法に賛意を表明したというニュースが流れた。それからまもなく、816日に、気候対策法案がいわゆる「インフレ削減法(Inflation Reduction Act, IRA)」という名で成立したのである。これは、ビルドバックベター法案を修正したもので、法案の番号HR5376も同じである。

インフレ抑制法の主要項目と収支を見てみよう。表2の左は財源額、7370億ドル(約103兆円)であり、その内訳が示されている。右側が投資額で合計4370ドル(約61兆円)である。財源額より大幅に小さいことがわかる。その差額は、差し引き3000億ドル以上が、財政赤字の削減に使われる、ということである。積極財政の政策として提起されたグリーン・ニューディールが、インフレの中で、消極財政の「インフレ抑制法」となったことがわかる。なお、再エネ・脱炭素等の補助金や優遇税制の一方で、新規の化石燃料開発を認めていることに、注目しされたい。IRAは妥協の結果として、このような欠点も含んでいる。マンチンがこの政策に支持を表明した直後、気候移行政策のリスクがある企業(化石燃料会社等)の株も、再エネのチャンスがある企業と同様に高くなったことが、スイス再保険のDeng et al.(2023)の分析で明らかになっている[4]

 

2 10年間の財源額と投資額(単位、億ドル)

<財源額>7370億ドル(約103兆円)

2220 法人税最低税率15

2650  処方薬価格改革

1240  内国歳入庁(IRS)の税務執行強化

740  億ドル、自社株買い賦課金1%

520  億ドル、直接税の損失制限の延長

7370  億ドル、財源の合計

<投資額>4370億ドル(約61兆円)

3690  エネルギー安全保障および気候対策

640  医療安価法(ACA)の延長

40  西部地域の干ばつへの対策

 

<差し引き>3000億ドル以上(約42兆円以上)
財政赤字削減

出典:文献[4]より引用、翻訳

 

さて、サンダースのグリーン・ニューディール(16.3兆ドル)から始まった気候対策としての積極財政政策を振り返ると、上院予算委員会委員長となったサンダースの要求は6兆ドルに縮小し、バイデンの法案策定指示は4兆ドルとなっていた。これがビルドバックベター法案では3.5兆ドルから2.2兆ドルへと縮小してようやく下院を通過し、最終的にはインフレ抑制法で4370億ドルまで縮んだわけである。

3は、インフレ抑制法(IRA)のエネルギー関連措置の概要である。電力の脱炭素化や、クリーン燃料、個人への省エネなどのインセンティブ、クリーン自動車、クリーンエネルギー関連製造業、クリーン電力とクリーン交通、といった分野に補助金が出されるのであるが、これらの補助金が税額控除の形をとっているのが特徴である。発電量や生産量に応じた税額控除をProduction Tax CreditPTC)といい、投資額に応じた税額控除をInvestment Tax Credit (ITC)と言う。 

 

3 インフレ抑制法の支出対象分野と補助金率(税額控除率)[5]

分野

規定                                                       補助金率(税額控除率)

電力の

脱炭素化

・特定の再エネ電源に対し、既存の発電税額控除(PTC)を強化   0.32.5セント/kWh

・既存の投資税額控除(ITC)の拡張                    26%

・低所得者の太陽光・風力のための投資税額控除(ITC)        1020%

・原子力に対する新たな発電税額控除(PTC)               0.31.5セント/kWh

クリーン燃料

・クリーン水素に新規に税額控除(ITC or PTC)       ITC 630% PTC 0.63.0ドル/kg

個人への

インセンティブ

・既存の住居用省エネ税額控除の拡大                1030%1200$/yr

・住居用クリーンエネルギー税額控除の拡大            当初30%から徐々に低下

・既存の商業用ビル税額控除の修正                 1.85ドル/平方フィート                                                    

・新築省エネ住宅税額控除の拡大            従来の2000ドルを、2500$5000$に引上                   

クリーン自動車

・新車EV税額控除の拡大                        <7500ドル

・中古EV税額控除の新規創設                 購入価格の30%、最大4000ドル

・クリーン商用車税額控除の新規創設                 購入価格の30%

・輸送用代替燃料や電気の供給施設の控除拡大          技術による

クリーンエネルギー

関連製造業

・先進エネルギープロジェクト控除の拡大(送配電・蓄電関連資材に)    30%

・住宅用ソーラー&風力部品の製造にPTCを新規創設              部品による

クリーン電力と

クリーン交通

・排出量に基づく電力PTCの新規創設                0.3セント/kWh1.5セントkWh                

・特定技術に限らないITCの新規創設                  6%~30%

・クリーン燃料に対するPTCの新規創設   0.21ドル/ガロン、航空用0.351.75/ガロン

 

 では、こうした措置でどの程度の排出削減効果が見込まれるのであろうか。いくつかの研究機関が推計しているが、おおかた似たような結果が出ているようである。本稿では、プリンストンのリピート・ゼロラボの試算を参考にする(次頁図)。一番下の線が米国にとってのネットゼロの経路であり、2005年基準で、2030年に51%削減せねばならない。一番上の線が既存の政策であるが、インフラ整備法の効果を含めても、とうていネットゼロに近づくこともできない。それに対して、両者の線の中間となるのがインフレ抑制法の効果である。これを見ると、既存の政策とネットゼロ目標とのギャップの、半分程度を埋めることが分かる。

 政治的には難しい状況が続く。202212月の選挙結果では、上院では民主党が過半数をとったものの、共和党が下院の過半数を占めた。そんな中で、20239月に入って朗報がひとつあった。バイデン大統領がアメリカ気候隊(American Climate Corp)の創設を発表したのである。まずは初年度に2万人の若者たちを雇って、自然エネルギーや森林保護など、アメリカの環境を守る分野で働いてもらい、技能経験も積んでもらうという政策である。この政策の源流は、サンライズ・ムーブメントの要求「グリーンジョブをよこせ」であった。サンライズはグリーン・ニューディールの根幹として、市民気候隊(Civil Climate Corp)の創設を求めていたのであったが、これがついに全米の政策として実現するに至ったのである。まだまだ道半ばであるが、米国の気候政策は、着実に前に進んでいるといえよう。

 

 

図: インフレ抑制法の効果に関するPrincetonREPEATの試算[6]

 

付録: オカシオコルテス&マーキーのGND議会決議案の概要[7]

目標

プロジェクト

要件

給料の高い数百万の新規雇用

  コミュニティが決める強靱な
プロジェクト

  米国のインフラの改修・改善

  公正な移行

  全ての人々に高度な教育と訓練を

公平・公正な移行によるGHG排出ネットゼロ

  100%クリーンエネルギーで
電力需要を満たす

  スマートグリッド

  新旧の法律による環境・社会会計

  新規クリーン技術R&Dに公共投資

持続可能なインフラと産業政策

  損傷した生態系の回復

  気候変動影響の緩和と対処

  政府の機関・組織・事業による適切な公的所有と収益分配

  民主的な計画・実施・管理

「最前線の脆弱なコミュニティ」のための公正と公平

  自然地と利用地の回復

  建築物や工業、農業、交通の
脱炭素化

  労働組合を伴う新規雇用、影響を受けた労働者の地域雇用

  雇用保障、まっとうな賃金、適切な家族休業や疾病休業、有給雇用や退職保障

きれいな大気と水、気候とコミュニティの強靱さ、健康な食料、自然へのアクセス、持続可能性

  国際的な技術交流と助言

  他国のGNDの支援

  新規排出源の同定と浄化

  汚染地の浄化

  貿易ルールの執行、調達基準、汚染産業や職業の流出を防ぐための国境調整

  集団交渉権

  海洋や歴史的遺産の保全、貴重な場所を侵害しないこと

  先住民の権利をめぐる自由意思による事前合意(FPIC)、
条約の尊重、主権と地権の執行

  不公正な企業競争に対する保護

  質の高い医療、安価な住宅、経済的安全、きれいな水と空気、安価な食料、自然保護

 

 



[1] プラカシュ&ジルジェンティ(2021)『グリーン・ニューディールを勝ち取れ』朴勝俊ほか訳、那須里山舎

[2] 2019年にサンダースが打ち出したグリーン・ニューディール政策は、朴勝俊による翻訳で全文を読むことができる。https://green-new-deal.jimdofree.com/https-green-new-deal.jimdofree.com-2023-09-01/

[3] Bernie Sanders (2022) It's OK to be angry about Capitalism, Crown

[4] Deng et al (2023) War and Policy: Investor Expectations on the Net-Zero Transition, SwissRe

[5] 3は以下の文献を参考に筆者作成: Emily von Loesecke and Charlie Chermak (2023) The Inflation Reduction Act: Impacts on Utilities and Power Producers Climate and Energy, February 2023, Volume 39, No. 7; Resources for the Future (2022) Incentives for Clean Hydrogen Production in the Inflation Reduction Act.

[6] Princeton University ZERO LAB (2023) Climate Progress and the 117th Congress: The Impacts of the Inflation Reduction Act and Infrastructure Investment and Jobs Act, July 2023, https://repeatproject.org/docs/REPEAT_Climate_Progress_and_the_117th_Congress.pdf

[7] Source: Ray Galvin, Noel Healy (2020) “The Green New Deal in the United States: What it is and how to pay for it” Energy Research & Social Science, 67


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